昭和46年11月16日 朝の御理解 大坪かよこ
御理解第55節
賃を取ってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、年を取っては頼んでくれぬ。信心は年が寄るほど位が付くものじゃ。信心をすれば一年一年ありがとうなってくる。
若い時には元気もある、力もある。だから、・・?頼んでもくれるのです。段々年を取って力も無くなり、気力がなくなって参りますと、誰でも頼んではくれん。これは当然のことです。
信心はそれと反対。年を取っていくほどに、位が付くものであります。年を取っていくほどに力ができるのである。
信心をすれば一年一年有難うなってくる。そこで年を取ると、年を取っていくほど位が付くということは、ま、年を拾うて行くというだけのことではない。
もう年が70になり80になり、年をよるほど年をおっていくほど、位が付くというまあ、年が取っていくほど、有難うなってくるということが、位である。
ですから、いくら80になって90になっても、有難うなって行かないとするなら、では位が付くとは言えない。ただ、むやみに年を拾うていっておるというだけのことになる。ね、一年一年段々有難うなっていくという位が、頂けるような信心をさしてもらうことですね。例えばお金を銀行に入れております。やっぱりあの利子が利子を生んでいくようなもので、段々大きくなってまいります。
信心は、段々年を取っていくに従って、位が段々なっていく。と言うような元金というものが、ちゃんと若いうちにでけておらなければ、ならん。元ぎんと言うのがちゃんと出来ておらなければならない。?
ね、ですから信心の一番大事なところ、信心の一番大事なところ、ここだけは頂いとかならんと言うところを頂いておりますと、ね、あとは自然とその信心が体験が体験を生んで行く。おかげを、が、おかげを生んで行く。力が力を生んで行くのですから、一年一年有難うなっていくわけです。ですからね、ほんとにあの金光様の御信心で、私は、よその信心はあまり知らんですけれど、でなからなければ言えることではない、また頂けることではない、と言うふうに思いますですね。
昨日、飯塚の安東さんがお参りして来られました。ちょうどここに日田の田中さんと、高芝さんがお参り一緒になって、それでま、私も4時のご祈念が終わってからでございました。
・・?いろいろ話を聞かせて頂きましたですね。
安東さんが伊万里におられまして、竹内先生が熊本におられました。
で伊万里市の助役としておいでられましたから、竹内先生だけが、こちらに伊万里の方に、そいで安東さんのうちから、あの一人になっておられたことで、・・・・・?いわゆる伯母にあたられます竹内先生のお母さんが、あんたは非常に熱心に信心をするし、それだけの・・信心をするなら、ね、いま、当時の椛目・・有難い先生がおられるから、一辺私にだまされたと思うて参ってくれんかと、ま、言うてもらって、言われたけれども、どうもお参りする気はしなかったけれども、こんこんとそのおばあちゃんが安東さんに説かれた言葉の中に、此の方の信心はね、神も助かり、氏子も立ち行くという信心。神様も喜んでくださりゃ、氏子も喜んで出さるという信心ばい。もうこれがね、なんと素晴らしいことじゃろうかと思うた。神も助かるてんなんてん聞いたことがない。その当時は非常に熱心な、ま、そのお不動様の信心をなさっておられた。あちらにま、でられ、・・・?先生がおられて、もう合楽の人たちは、親先生を中心にして・・ように私もそのお不動様の先生に付いて参って、どんな寒中でも、高い山の上にお祭りしてある不動さんの滝、お滝場にそれこそもう草鞋ばきでね、・・・・・・?草鞋ばきでその高い山に登っては、滝を頂いて、もう一心不乱に・・先生も言われた。一心不乱に願い事を頼んでさえおりゃ、願いが成就するとただ言われるから、その一心不乱に、ただ自分の願いを続け抜いて
おかげのにならんなら、まだ一心が足らんと思うて、一生懸命お水をかぶったり、滝を頂いたりしてから。だからそういう信心を竹内のお母さんは知っておられた。あんた信心・・、その信心を金光様の信心に向けたら、素晴らしいことになるだろうから、一つ椛目に・・まあ、半ば強引に進められてお参りをされたのが初めてである。
ですからたとえば、そういうふうにたとえそういうその、その時・・火の行水の行と言ったような行をしてからでも、願うことが、ただ自分の願いが成就することのためだけに、一心不乱に願うとかちゅうなら、これはもう・・年取っていきよりますと、水もかかられんごとなりゃ、山にも登られんごっなる、いうなら、・・?も頂かれんごっなって参りましょう。
そするとたとえば熱心に一心不乱にそうして拝んで、拝めば助かるということも、一心不乱に拝めなくなってくる。
金光様、その宗教である。そすと今度は願いがかなわんごとなってくる。
根本的に違うですね。金光様の御信心はどこまでも、ね、神も助かり氏子も立ち行く、神様も喜んで下さるなら氏子も喜べれれるいわゆる喜び合うていけれる、私は、信心の、お道の信心の根本と言うのはここだと思う。
ここのところをはっきり把握できるところまで、信心をさせて頂いておればです、ね、あとはほっといてもと言うことは、拝まんでも、修行せんでもと言う意味じゃないです。ね、そこんところが分って行けばです、ね、信心はおのずと有難うなってくる。
その有難いものが、私用にもなりゃ御用にもなる。お参りにもなる。ね、神様が喜んで下さるだけではない、自分も一緒に喜んで、神様と氏子とが、喜び合うていけれる、いわゆる合楽の世界。ね、神様も楽なら氏子も楽になっていくという世界である。
ね、その根本的なところのお道の信心を把握して、ただ自分の都合が叶いさえすればよい、ね、自分の願いが成就しさえすれば、何さまでんおんなし、何様でんよかと言ったようなものではなくて、私どもが助かるということはそのまま神様も助かって下さることにつながっておらなければ、いけないということになります。
私どもの助かりが、そのまま神様の助かりにつながっておる。
その、そこんところをひとつの根底としてです、お互いの信心が進められていく、どういう信心が進められていくいかと。もう自分だけじゃない。現教主様が仰るように自分の手元のところをしっかりと大事にしていくということ。ね、例えて申しますと、自分の家の前をきれいに掃除をさせてもらうということは、ね、世界が清まっていく、世界の一部が清まっていくんだという考え方。
自分かたん前さえ美しゅうなればよかちゅう、そういう考え方になると、ね、自分かたん前だけ美しゅうしてから、どんなゴミどんはねくりかえとったちゃよかちゅうことになる。ね、ところが世界の、ね、自分の前がきれいになるということは、世界の一部が清まっておるんだという頂き方になって参りますとです、ね、まあ暇があるなら、時間があるなら、ね、自分の前だけではない、隣の前までも清めていこうというような心もいつか起こってくるだろう。
ね、もちろんごみをよその方へはわきつけると言ったようなことはないけど、きれいにそれを取って行くと言ったような、いわゆるそういう生き方になれとこう、自分がよかだけじゃない。
昨日、久留米のの大場さんが、全然信心のない方ですけれども、現在医大に入院しておられて、もう、医者も難しい、自分も難しかろうというような方がおられる。その人のために毎日こうしてお届けをなさって、一生懸命お願いをなさる。
娘さんがおられるから、どうかあなたも参ってくれと言うてお進めになるけれども、なかなか一辺も参って・・なんとかかんとか言うて、お参りにならない。
だから私がこうやって一生懸命お願いをしておるということが、かえって神様に御無礼にあるとじゃないでしょうかという意味のことをお届される。
言わば押せども引けども、相手には応えない。けどもその有難いことに、その病人さんが、段々おかげを頂いておられるという事実があるわけですね。頂けないものが頂けるようになったり、苦しまれたのが、楽になられたりと言うように、ま、病院に見舞われるたんびんに、そういう証が見えて来ておる。
ただそれでけでも楽しいのであるけれども、せっかくこうしてお願いさして頂いておるから、この人を金光様の御信心になってもらえれば、子供さんたちでも信心になってもらえばという、ま、思いがしてですから、ね、いわば相手に応えて行かん。ま、お願いしてもらいよるけん、おかげ頂きよるというふうにも思えてもらえとらん証拠に、進めてもお参りしなさらん。だから馬鹿らしいなる。いうならばね。だからかえってほんなこつ御無礼になるとじゃなかろうかというていよりましたが、ね、自分の前がきれいになるだけじゃない、自分の隣近所までもきれいになることのために、今精進しておられるわけであります。
で、私が申しました。大場さんたとえばね、とても自分でどうにもできない、たとえば大きな岩なら岩に、岩を一生懸命押しておられるようなもんですから、岩そのものはびくともせん、動きもせん。けれどもね、それを一生懸命なさっておられるうちにです、こちらのほうの腕には力こぶが出来て行っておる。力が出来ておる。
これを押してもびくともせん、いくらお話をしてあげても、お願いをしてあげても、相手は金光様の金の字も言わん。もうそげなこつならやめとこと言うのじゃなくて、やはりそれが真であるなあらば、真心かけたものであるならば、私はやはり続けなさらなければならない。
相手を動かしなさろうが、動きなさらんは、神様が動かんで下さるのであるから、これがよし動かなくても、やはりここんところを押していくことによって、自分自身が力を受けていくことですからね、と言うてま、お話をした。
ね、自分自身の力がでけて行く。いいですか。お道の信心の根底が、神も喜び、氏子も喜び、ということ。しかもそれがあいよかけよで、親のことは子が頼み、子のことは親が頼み、頼み合いしていくような生き方、そういう信心が身に付いてくる。それから段々力を受けていく。自分の前だけをきれいにするのではない、もちろん自分の庭先だけはきれいになっておるでしょうけれども、それが世界が清まっていくことにまでつながっておらなければならない、と言うことです。
世界中はわいて回らにゃんちゅう意味じゃない、自分の隣に難儀な人があるならば、その隣の難儀な人の助かりのことにまで、願わせてもらうことは、世界の総氏子が助かって行くことにつながっておらなければならないということです。まず手前からということです。
そういう信心を根底としての信心、ただ一心不乱にお水を頂いたり、滝を、お水を頂いたりして、ただ、いわゆる表行一つで一心不乱にただ自分の願いが成就しさえすればよいという信心とは、そもそもから違うわけである。なら、けれども金光様の信心でもです、ただわがことだけが願われるという信心であったら、その安東さんが言われるような信心と五十歩百歩ですから、これではいくら年を取っていっても位も付かん、力も付かん、一年一年有難うなってくると言われる、有難うなっても行かないことになります。
有難うなるということはね、自分が有難うなろうと思うて有り難くなれるもんじゃないです。ね、いわゆる神様が許されるのです、神様が下さるのです。
ね、ですから、神様が喜んで頂けるような生き方にならせて頂くことによって、そのお返しのように私の心の中に有難いものが返ってくる。だからどこから湧いてくるかわからんという喜びに浸ることができるんです。
しかもその喜びがです、年を取って行くに従って、濃厚になっていく。その喜びが、いよいよ有り難い、一年一年有難うなってくるということになってくる。
ね、だからそういう信心を根底として力を受けて行くための修行が成されるということは、ね、自他ともに助かっていくというような生き方、自分方がきれいになることは、もう世界がきれいになって行くことにつながっておる。隣の人が助かって行かれることは、もう世界の総氏子が助かっていくことにつながっておるというわけです。
そういう信心なら、隣からまた向こうの隣、向こうの隣からまた向こうの隣というようにです、ね、神様も喜んで頂く世界が広がって行く、だから喜びもまた広がって行く道理でありましょうが。
一年一年なるほど、こうならば有難うなって行くであろうということです。
ね、そこんところがです、元がねというものがまずでけて、それを銀行に入れられておる限りその元がねは、十円は二十円に、二十円は三十円に必ず増えて行くんです。
だから私どもがしっかりこの信心の稽古をさせて頂いておるのも、そのところを間違えないようにです、その根本的なところをしっかり把握しての信心でなからなければならんと言うことです。
ね、そしてそこから力を受けて行こうとする、力を頂いて行くことのためにしよる、そのことはたとえばびくともしないかもしれない。願っておることは、ね、段々信心さて頂きよるなら、自分のことだけじゃない、自分一家じゃない、自分の親戚だけのことではない、自分の村内だけじゃない、ね、日本人だけのことじゃない、もうそれこそ世界の隅々のことに至るまで祈らなければおられないほどしの信心が、段々育ってくるということです。ね、ですから世界の隅々まで、祈ったから願ったからと言うて、それがどれだけのことがあっておるか、どれだけのことが、おかげになっておる分らないほどしだけれども、それが祈れれるところに力が付くんです。
だから口で唱え言葉のように言うだけじゃつまらん。
ね、拝詞を奏上させてもらう時にです、ね、世界真の平和とか、世界総氏子の助かりとかと、それをただ唱え言葉だけじゃだめだ。唱え言葉だけならば、金光様の信心をしておる者の全てが唱えておることなんだ。朝晩に。ね、それがそう願わなければおられないものが生まれてこなければ。そこに神も喜び氏子も喜べれる道が開けてくるのである。
ね、力を受けるということはですね、これはもうほんとにいつの間にこのような力が自分に付いておったじゃろうかと思えることはもう楽しゅうしてたまらん。その楽しさが、いよいよ信心を駆り立てるといういか、いよいよ信心を、への精進への道を開いてくれる。楽しゅうなるからです。
ね、たとえば朝目を覚まさせて頂いても、さあ、朝のご祈念の雰囲気を思うたら、も胸躍る。ね、心が躍動して来る。今日はどういう御理解が頂けるじゃろうかと思うたら楽しい。例えば子供の時に、さあ、明日は遠足だ、運動会だと言ったようなときには、普通・・・?も一時間ぐらい前から起きるでしょうが。
ね、ですから信心もです、そういう楽しみがでけてくるから、信心のないものがびっくりするような元気も出れば、楽しい信心の稽古もできるわけです。
昨日、一昨日でしたか、森部の高山さんがお参りされてから、ま、いろいろ・・・あったり、娘さんがその隣村に嫁いっとる、てる子さん、今朝も参って、もう親先生もう、てる子がもういつの間にこう言う信心を身に付けとったじゃろうかと思うて有り難い。わざわざてる子のことだけを願うたわけじゃないけれども、やはり親の信心があのようにして伝わって行っておるということは、ま、なんと有り難いことであろうかと、いつの間にあげん信心が身についとったじゃろうかと言うて、言われたんです。だからもうつい最近、次々そのま、ちょっとした事故が、自分たちも事故にあわれたり、または、この頃からも事故がありましたが、ね、あちらのそのお母さんがもうそれこそ居ても立ってもいられんように、おろおろしなさるようにどうなるじゃろうかと心配しなさる。ほんというたら自分の主人のことであったり子供のことであるとですから、それこそ、自分自身がおろろろしなさるぐらい。ね、年を取っていくほど位が付くものであるとするならばです、おばあちゃんがもうてる子さんそげんばたばたしなさらんでよかがのと、きちっとなるごとなるとじゃから、さ、落ち着かんのといわっしゃるとがほんなことでしょうが。ね、ところが年をとっただけ位が付くとじゃないということ。年を取っていくほどとはそういう信心の根底のところをふんまえての信心、しかもそれが力を頂いて行くことの信心が楽しゅうなり、うれしゅうなるような信心して初めて力、いわゆる年を取るほどの位が付いてくる。
ね、それがてる子さんがお母さんに言われる、お母さん、もうお神様にお願いしとるけん心配しなさらんでよかですがち。ま、信心ないものと言うたらどうした横着な嫁さんじゃろうかちゅうごたあるかも知れん。それを高山さん聞かれて、てる子がいつの間にこう言う信心が育っておったじゃろうかと言うておられます。
いつの間にか育って行くということ。信心が。ね、その根底をなすものがです、ね、たとえばならそのお母さんであるところの高山さんの信心、ね、そん高山さんの信心の内容がです、ただ高山一家がたすかりゃええ、と言ったようなものじゃなくて、いうならば、総代としての御用、ね、高山家が繁盛するということはそのまま合楽の繁盛に繋がっておらなければならない。そういう私は根本的な信心が身に付いておられて初めて子供たちの上にもそういう働きが始まっておるんだと私は思わしてもらう。
ね、そこで私どもがその自分の信心を確かめ確かめ信心を進めて行くということはです、ね、自分の信心を、の進め方が間違っているかいないかを確かめるためにです、信心をすれば一年一年有難うなってくるということであります。
もし一年一年有難うなっていないとするならば、こりゃどこかが間違っておる、おかげは頂いておっても、それでは年を取るほど位が付くということになってこない。
去年よりも今年というように自分の信心の喜びの内容というものがです、ね、深いものに広いものになって行かなければならない。
私はこのような見事な信心の、自分の信心を確かめて行く方法はないと思う。
一年一年有難うなってくるということ。一年一年詳しゅうなることでは決してない。
いかに詳しゅうなったところで、有難いものが伴うて行かないならば、それは、いわゆる論語読みの論語知らずということになります。
一年一年有難うなってくる信心を身に付けていきたい。そのためには、まずその根底になるもの、をまずはっきり把握してから、そしてそれに力を受けて行くということの信心修行、力を受けて行くということは、そのことがたとえば、村中のことをしら真剣に祈わなければおられない、願わなければおられない、この人の信心になられたら、いや、村中が、お道の信心になられたらどんなに村が円満になっていかくだろうかと思うたら、願わなければおられない。それは、なら、何年経っても十年経っても、ま、大したことはないにしましても、もうだから村内のことは願わんぞじゃなくてです、それを願わなければおられない信心こそです、自分に力を受けて行っておる印である。
これは動いてはいないけれども、ここに向かって進んでおる、こちらの方には、ね、力こぶしがでけていっておる印でありますから、ね、そういう祈りをいよいよ育てて行かなければいけません。
確かに年をとったら力が無くなるから、賃取り仕事は誰も頼みませんけれども、信心はそれとは反対になって、信心は年を取るほど力が付いて行く。年を取るほど位が付いてくる。年を取っていくに従って、有難うなっていくもの、そういう信心を頂きたいですね。どうぞ。